敷島画廊 blog







日々感じたこと考えた事など気ままに綴って行きたいと思います。


2020

5月15日(金)

まだまだ、たくさんの本と出会って来た。
7 booksに掲載予定で載せることが出来ない本もたくさんあった。
下記に数冊だけ載せて7 books.を終了したいと思う。

    

  



5月14日(木)

 7日目
7books.
眞田嘉明さんからバトンを引き継いだ7booksのついに最後の一冊になった。
本と共に走馬灯の様に過去の時代が蘇って来た。
最後の7冊目の後、画家の長谷川資朗さんにバトンを渡したいと思う。
長谷川さんの過去の時間と現在の時間が浮かび挙がるかも知れない。
また、未来を知る事になるかもしれない。
長谷川さん、宜しくお願い致します。

#7 「世阿弥集」

青い海と空を切り裂きながらジェットフォイルは白い航跡を残して港の岸壁に接岸した。
潮と風に吹き曝された、能楽堂数カ所を訪ねて来た。
世阿弥は流された、ここで何を考えたか。
お囃子が鳴り響き、四隅に立てられた笹竹に張られた藁紐とそれにぶら下がる幣束のの中で演じ踊り台詞を吐き出す、お神楽を私は物心ついた時から絶えず興味の対象だった。
青年時代は能が好きで渋谷、水道橋まで良く足を運んだ。
遠くは農民の能、黒川能まで見に行った。
不思議な体験もした。
爆ぜながら燃え立つ篝火、漆黒の闇、木立のざわめき、死者が現れ生者に訪う、時空が捻じ曲がり過去と現在と未来を彷徨う。
そこにはただ、生きている自分が居た。

生き続ける自分はこれからも沢山の本に出会うだろう、また沢山の本と出会って来た。
世阿弥集は現在、私の糧となっている。
アートを観る、眼ともなっている。

世阿弥集の中にこんな言葉がある。
花は心、種は態なるべし。
(風姿花伝第三問答条条の下)

心地に諸もろの種を含み
晋き雨によく皆 萌ゆ
頓て花の情を悟りぬれば
菩提の果は自ずから成る
(古人の言)


昭和45年7月25日初版第一刷発行
日本の思想 全20巻
日本の思想8 世阿弥集
編者 小西 甚一
発行所 (株)筑摩書房



5月13日(水)

 6日目
7books.
眞田嘉明さんからバトンを引き継いだ7booksの6冊目。

#6「坊ちゃん」

金色の落ち葉が日に照らされながら落ちて来る。
家から二十メール程離れた我家の裏屋敷の持仏堂の陽だまりの縁台で本を読むのが日課になっていた。
モタモタして居ると必ず祖父の将棋の相手にされてしまう。
大事な時間を惜しみながら晴れた日は此処にやって来た。
小学校の高学年の頃、都会の親戚から一冊の本が送られて来た。
夏目漱石の小学生向けの「坊ちゃん」だった。
江戸っ子気質で血気盛んな無鉄砲な新任教師。登場する人物が滑稽で、子供達のいたづら、悪口雑言、義理人情と。
とても楽しく読んでいた。
登場人物を私の身の周りに居る人に当て嵌めて楽しんでもいた。
また、江戸弁は私の曽祖母が江戸っ子で死ぬまで江戸弁を話していた、懐かしさも有ったのかもしれない。
その後、漱石に惹かれて現在までも繰り返し繰り返し読んでいる。
漱石全集はアルバイトで得た、少ないお金で大学の生協で一冊一冊づつ買い集めた。
漱石の作品の中には私を魅惑してやまない、自分自身になりたいが為の人間のエゴがもたらした究極の愛と罪の意識が偏在していると思う。
馬は走る。花は咲く。人は書く。自分自身になりたいが為に。(漱石)

小学生版の夏目漱石「坊ちゃん」は行方不明
昭和49年12月9日第ニ刷発行
著者 夏目 漱石
   夏目漱石全集十七巻+月報

発行所 (株)岩波書店



5月12日(火)

5日目
7books.
眞田嘉明さんからバトンを引き継いだ7booksの5冊目。

#5 「万延元年のフットボール」

汚れた重い空気の層をこじ開ける様にタバコの青い煙は流れて行く。
青梅駅で降り、真直ぐな通りを歩いて行くと下り坂になる。
そこから、小さな道に入り暫く歩いて行くと崖に取り込まれた様な三階建の大正時代の奇妙な建物に出会す、半分土に呑み込まれた一階はスタジオで二階(ここから出入りしているのだが)喫茶店になっていた。
三階は様々な若い画家や彫刻家や舞踏家や作家や役者や音楽家の溜り場ないし居候場になっていた。
突然、彫刻家は街に針金彫刻を売りに行ったり、舞踏家は金粉ショーが有るとか言って出かけて行った。
暫くすると幾らかのお金を持って帰って来た。
「回帰線」と言う名前だった。
私は度々、友人が居着き喫茶店で働いていたので訪ねて行った。
そこの住人達は大江健三郎を熱心に読んでいた。
私も熱に浮かされる様に大江健三郎を読んだ。
その当時、自分を含めた若者達は自分の育った環境や人間としての苦悩を少しでも救われる事を望んで熱中して大江を読んだのかも知れない。
若者には若者の神話の形成が必要だったのかも知れない。
暫くして、私は其処を訪ねる事も無くなった。

この本は昭和42年9月12日第一刷発行
著者 大江 健三郎
発行所 (株)講談社



5月11日(月)

 4日目
7books.
眞田嘉明さんからバトンを引き継いだ7booksの4冊目。

#4 「銀河鉄道の夜」

漆黒の闇の中に母と私は毎日の様に佇んで星を眺めていた。
母の手には必ず、星座表が握られていた。
学研の小学生の科学をその頃、母が私の為に取り寄せてくれていた。
田舎の星々は手で梳くえるかと思うほど私の天上でチカチカと煌めいていた。
時々、尾引いて星が消えて行った。
生徒の数がどんどん減った私の田舎の小学校では一つの教室を図書館にした。
図書館と言っても沢山の本が有る訳でも無く、父兄の要らなくなった小学生向けの本を寄贈を受け、ただ本が並んでいるだけだった。
イソップ物語、ギリシャの星の物語、アンデルセン物語、日本昔話、他 毎日毎日夢中になって読んでいた。
その中に銀河鉄道の夜があった。
小学生の私に不思議な感覚と不思議な時空の旅をさせてくれた。
星座表を基に母と私は毎日星の旅を楽しんだ。
時間軸と空間軸。
今までも何度か、読み返している。

小学生の頃の本は無くなったがこの本は昭和45年11月10日初版発行
著者 宮沢 賢治
旺文社文庫 銀河鉄道の夜 他9編
発行所 (株)旺文社



5月10(日)

 3日目
7books.
眞田嘉明さんからバトンを引き継いだ7booksの3冊目。

#3 「サルトル全集 32巻」

残火が突然燃え上がる様に大学が学生運動でロックアウトになった。
授業も無く、日々が無色透明に流れ、景色も色を失っていた。
友人達に誘われる侭にロック喫茶だ、ジャズ喫茶だ、クラッシク喫茶だと彷徨う日々を過ごしていた。
長い時間を喫茶店の中で過ごしている内に何かまとめて読もうと想像する様になった。
有る時、友人が話していた事を思い出した。
時間がある時はドストエフスキー全集かサルトル全集に限るとか何とか言っていたのを思い出した。
私はサルトル全集にした。
薄暗い音楽の鳴り響く喫茶店の中で夢中で読んでいた。
人間の存在、在る事はどの様な事なのか。
芸術とは存在の中でどの様に規定すれば良いのか。
時間とは。
今でもあの全集とあの時の時代をふと思い出す。

これは昭和47年4月10日増補重版発行
翻訳 佐藤 明
   白井 浩司
発行所 (株)人文書院



5月9日(土)

 2日目
7books.

眞田嘉明さんからバトンを引き継いだ7booksの2冊目。

#2 「萬葉集」

とある、学生時代。
神田の古本屋街に本を探しに行った。
探しても探しても目的の本は見つからなかった。
疲れきって帰ろうかと思った時、ある古書屋の軒先に無雑作に積んで在った本が目に止まった。
何気なく、安い事もあって購入して書架に何年かの間仕舞い込んであった。
社会人になり、仕事がら各地に出向く事になった。
各地の美しい自然と人々に出会う、ふと書架の片隅にある萬葉集の本を思い出した。
古の自然と人間の心のひだを美しく言葉で綴り詩う作品の数々を鮮明に思い出した。
それから時間の有る時は只々、捲り読んだ。
函も無くなり、カバーも無くなり、ただ色褪せた布表紙の本が今も時々捲られる為に私の傍らにある。
現在は画家の長谷川資朗氏とどの様な縁か判らないが油絵で描く、萬葉集シリーズ(文様で表現)の共同プロジェクトを行なっている。

これは昭和52年5月10日補訂版発行
編者 鶴 久
   森山 隆
発行 (株)桜楓社



5月8日(金)

1日目
7books.

友人であるダンディでスポーツマンの眞田嘉明さんからバトンを引き継いだので、今日から始めようかと思います。

#1「ランボオ詩集」

生温い水の中に浸かっている様な田舎の高校生活を送っていた。
暇に任せて本だけは乱読していた。
乱読していた本の中に私の人生を変える様な詩集に出会ってしまった。 
この詩集は私に劇薬を飲ませ、一度殺し再生させる様な衝撃を与えた。
この詩集の言葉を訳者の言葉と感性では無く、自分の感性で読みたくなり、その言葉の国の言語を習得する為に大学も選んだ。
私の人生も仕事もここから始まっている。
一昨年、パリのソロボンヌ大学の近所の本屋さんのガラスのショーウィンドウの中に何冊か飾ってあるのを見た。
とても、嬉しかった。

これは昭和47年11月20日初版発行。
訳者 小林 秀雄
発行所 東京創元社
価格  850円。

他の作品 恩師翻訳 ランボオ全集
    フランス版 ランボオ全集



2014
3月11日(火)

今日は3月11日、あの大震災から3年が経った。あの時私は仙台市内のデパートの地下一階にいた。突然の激しい揺れと暗闇の中に閉じ込められていた、老婆たちにしがみつかれ仁王立ちになって次から次から来る余震に耐えながら時を過ごしていた。その後誘導されるままに外に出てみると人人の波であった、余震でビルのコンクリートも時たま落ちてくる、それを避けながら駐車場に向かうが車が出せない状態だった。時間が過ぎ何とか車を出し、一人残している実家の母の元に向かったがバイパスや道路が大混雑しているし信号が全く駄目な為、車のナビを設定したら津波の去った後の港湾の方に誘導されてしまった。そこは瓦礫と潮溜まりと流木と裏返しになった車、難を逃れて歩いている人々、赤い警告灯を灯す警察車両と消防車両がいた。迂回しながら段差の着いた道路を越えながら何とか母の元に何倍かの時間をついやしながらようやくたどり着く事が出来た。次の日からは車のガソリンも費やしてしまったので毎日全国から集まってきてくれた支援の警察車両と自衛隊車両と消防車両が走り廻るのをホットした気持ちで眺めていた。そして全国にいる友人・知人から温かい安否・励ましの電話・物資を頂いた、とても嬉しかった。数日経ち、南三陸町に行ってみて目の当たりに大惨事で有ることが理解出来た、とても悲しく自分が何が出来るかを深く考える事になり自分なりの動きを今日までしてきたがまだまだ何も出来ていない。何がこれから出来るか考えながらまた今日から始めようと思う。復興はまだまだ先の話です、まだ瓦礫が片付いただけ。今日もあの日と同じ様に小雪が舞っている。



2月6日(土)


私の古くからの知人で山形県寒河江市で医師を生業にしている菊地隆三先生から先日「いろはにほへと」題の詩集が出版社経由で贈られて来た。菊地先生は数々の詩集、小説を書き出版して来たがこの度の「いろはにほへと」が私にとっては一番心に響く詩の数々だった透明で静かに彼岸を見つめる言霊が確かにその詩には存在している、人生を見つめて来た鎮魂が確かにそこあった。
カバー「いろはにほへと」は数十年来、大事にして来た熊谷守一画伯の書との事。



1月10日(木)

 新年になってからもう10日経ちました、巷ではようやく仕事が始まったようで慌ただしくなってきた。
私の友人の画商仲間から頻繁に電話が来るのだが皆一様に今年は良い年にしたいと言う電話だ、私も良い年にしたいと思う。
3.11の震災で家屋を失った人々、また身内を亡くした人々にとっても良い年に為って欲しいのだが年末・新年と南三陸町に行ってみたのだがまだまだ復興は進んでいない、瓦礫が片づいただけである、本当に悲しい風景が存在していた、政府は復興復興と言っているが予算も計上しているのだが縦割り行政がどうも復興の進捗を阻害しているようだ地元の人々の気持ちを考えるととてもやるせない気持ちになってくる、官僚も政治家ももっともっと被災を受けた地元に入り、どうしたら良いのか最善は何か、被災住民を速く安心して生活出来るような状況は何かを考えて欲しい。私の知り合いの官僚はまだ3.11後電話を寄こした限り一度も現地には入っていない。

1月2日(水)


新年明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
 年頭のごあいさつや時間が有るのでホームページを気ままに作っていたら表紙からグチャグチャになって最初から作り直し、あっというまに夕方になってしまった。